贖罪に至る道のり・・心からの後悔とは?
心理・精神科臨床
2025.10.14
森田ゆりさん 「むしゃくしゃする」の裏の恐れと不安(副題)から
FRaU 2019.6.8 「池田小事件・宅間守の女性蔑視と大量殺人を生んだ「男らしさ」の呪縛」
FRaUは 講談社の月刊誌(のよう)です。
えっ・・Wikiによれば 対象年齢が25-29歳・・?
いやーそんなことではちょっともったいない。というか、美容とかの特集はともかく、上っ面ではない、答えがすぐには出ない硬派な記事多し。
考え続けなければならないね ということ
誤解を放置しないできちんと知ろうとしていきましょうね ということ
そういう姿勢を感じます
さて 森田ゆりさんは ご紹介するまでもないでしょうけれでも
「沈黙を破って」で子どもが多様な状況や関係性の中で昔々から性暴力にさらされ、それを軽視され、また口を閉ざさざるを得なかったという事実を告発しています。これはもう50年近く前の書籍です。

CAPプログラムを日本に紹介し、酒田においでになったのはもう30年ほど前になるでしょうか。
CAPプログラムがなぜ、どのようにしてできたのか
CAPが重要としている視点、方法 は色あせることはないですね。
とはいえ CAPの運営と維持は特に小さい地方では難しいものがありますね。
庄内にも30人近くのプログラム提供が可能とされる修了者がいますが、実働はここ数年停止中のように思います。(思いますって一応世話人なんですが・・・)
それはともかく この記事はもうぜひそのままリンク先に飛んでお読みください ですが
もとになっているものは「ジェンダーと暴力・宅間守公判膨張記録」(森田ゆり 個人通信・エンパワメントの窓」を大幅に短縮した「体罰と戦争:人類のふたつの不名誉な伝統」(かもがわ出版)第4章からの抜粋となっている記事とのことです。
” その苦しい心理状態を宅間は公判でしばしば「むしゃくしゃする」と説明しました。
FRau 2019.6.8 「むしゃくしゃする の裏の感情」
表現を許されなかった怒りや悲しみ、とりわけ本人も認めたくない不安や屈辱や恥の感情は心の中の遺物として、行き場を失い子どもの身体の内をさまよい、自我形成に、人間関係の持ち方に深刻な影響を及ぼします。”
” 「昔から生きてんのがやっと。しんどかった。100人中95人まではこういう気持ちはわかってもらえないだろう。むしゃくしゃするとどうしていいかわからなくなり、女を襲ったり、車をパンクさせたりして、ごまかして不快感を発散する方法を身につけた。」 ”
上記 公判での宅間のことば
” 宅間は公判でも手記でも、自分を苦しめていた本当の感情を言葉にしたことはありませんでした。快・不快の感覚は繰り返し表現するが、関係性における悲しみや、寂しさや、喜びなどの感情については、弁護人からの質問があっても、答えることができなかったのです。”
上記「感情の鈍麻」より
” 本当の謝罪は、自らの怒りの仮面の下に隠れている悲しみと喪失を感じることからしか始まりません。
「遺族に謝りなさい」という弁護人たちの願いが届くためには、まず、「あなたの心の奥底で、怖くて、寂しくて、声を出せずに泣いている小さな少年を何十年も無視し続けてきたことに謝りなさい」という働きかけが必要です。自分への怒りを他者攻撃行動で発散する「怒りの仮面」の裏側をのぞき込み、そこで今も父からの体罰におびえている少年に共感し涙を流して寄り添えた時、彼の中に他者への共感が生まれます。その作業には勇気がいる。傷口のまわりに巻き付けた包帯とガーゼを剥ぐ勇気がいる。痛みを痛いを感じる勇気がいる。”
” 宅間は子ども時代から父親からの折檻の痛みや恐怖に対処するために、自分の感情を鈍麻させて生きてきました。「むしゃくしゃ」という表現以外に自分の感情に名前を付ける言葉を持たないのはそのためです。”
上記 「謝罪とはまず自分の傷の痛みに向き合うこと」
パーツ心理学の視点でいえば 「小さな少年を無視してきたことを謝る」のではない ということになりますね。
「小さな少年」を守ってきた「パーツ」をねぎらい、しかし その暴走しすぎがかえって少年を苦しめていそうだということを 話し合う ということが求められるでしょう。このパーツの了解なしに「小さな少年」にアクセスしてはならないのです。
公判で情緒に触れそうになると興奮し、暴言を吐くのは この少年を守るため。
それにしても 自分をマヒさせる手段が暴力・攻撃性だとこうして糾弾されるが
過剰な迎合による「いいこ」 や 「あきらめ」はその防衛の仕方を賞賛されて強化されていくということも実は同じことなのだということも忘れがち。
つらい感情 みとめたくない感情・情動と 自分はどんなふうに生きてきたのか…自分の歴史もふりかえってみたいかなと思います
